このあいだ、ふと昔の事を思い出して、けっこう重要な事に気付いたので、その事をちょっと書きます。(内容長め。)

というのは、僕にとって、高校二年の11月から後の高校生活と、それまでの一年生、二年生前半までの生活では、もうまるで色合いが違ってしまったんですよ。

親しい友人もおらず、何の変化もなく、ただ通学しているだけの、おもしろくもなんともない、灰色の高校生活1年半が、「ある事件」をきっかけに、明るく楽しく、友人もでき、恋人もでき、前向きで幸せな生活に変ったという、そういう極端な差につながったという、そういう話なんです。

で、そこまで大きな変化が生まれた、そのきっかけが「どういう事」だったのかが、ふと明確に思い出せるようになったんです。というか、自分でも未整理だった自分の内面の変化が、いまになって手に取るようにわかったという事かな?

その「ある事件」が「どのように」僕を変えたのか、それがいったい「何故」だったのか、当時の僕にはまるで理解できてなかったけど、なんといま頃になって、「ああ、そうか!
」と実に良く分かるようになってきたという事ですね。

驚いた事に、自分の内面の変化を、解説できるくらいにキチンと理解するのに30年近くもかかったのだ、って事なんですが。

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僕が通っていた高校は、自分の学力に合う高校が自分の学区内になかったがために「調整校」ということで、電車で20分、徒歩まで入れたら45分くらいかかる、少し遠いところにあったのですね。

なので、1年2年の間は、もう完全に「帰宅部」になってました。早く家に帰ってテレビでも見てる方がいいって感じですね。自宅近くの方が、まだ都市部だったし、田舎の学校の近所で遊んでいてもつまらないって感じだったのです。

しかしまぁ、そんな事をしてると、学校での友達も幅が狭くなるし、部活にも入ってなかったから、人生そのものがまったく広がらないわけですよ。

でも、それは、いまにしてみれば、他の人間との関係を、どうやって取り結んだらいいのかが、いまひとつ分ってなかったという事だったんだと、いまになって見えてきたんですね。ノウハウを持ってなかった訳です。でも、当時はノウハウがないからだ、とは考えてなかったんですね。

「なんかおもろない」って奴です。理由のない不満。あるでしょ? みんな。そういうの。でも、「なんかおもろない」って、結局は「単に知らないだけ」なんですよね。ただ、何を知るべきなのか? が分ってないって事だけなんですね。

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とにかく、高校二年の10月の僕には、そういう問題が見えていないから、「毎日がなんとなくつまらない」と思ってたわけです。

で、あんまりつまらないものだから、一日だったか二日だったか、学校をさぼったのですよ。まぁ、自分から行動を起こしたのは良いとして、実に後ろ向きですねぇ。それはそれとして。

学校をさぼったところで、別にやりたい事があるわけでもなく、家に帰るわけにも行かないので、大阪市内を一人でうろちょろしてただけなんですけどね。なにかアテがあるわけでもなく。実に無意味な「サボリ」でした。

そんな事を週に一度、二回くらいやったんだと思います。

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だいたい、うちの父親というのが、ACですので、自分に直面できない人で、寝過ごしたとか、気分が乗らないとか、そういう時に会社に電話して休んだりしてたわけです。休む事自体は別に問題ないんだけど、まぁ情けないというか、カッチョ悪いというか、わざわざ、ざーとらしいガラガラ声を作って、ゼェゼェハァハア言いながら会社に電話して「休みます」とかやってたわけです。別にそんな声作らんでもいいのに!(笑)

でもまぁ、多分僕はその時、父親の真似して「ゼイゼイハァハァ」と声を出して電話したはずなんですよねぇ。公衆電話かどこかから。あーカッチョ悪い。(笑)
そういうやり方しか知らないんだからしょうがないですけど。

そんなもの、別に普通の声で、「今日は調子が悪いので休みます。」で良いのですよ。それは。本来。ね? 休みたけりゃ、休んでいいんだから。ガラガラ声を出すなんてのは、自分に「俺は嘘をついている」と不要な罪悪感を刷り込むだけで意味がない。まぁ可愛らしいけどね。(笑)

でもまぁ、実は「連絡」は、しているのだから、そこはマトモです。休む奴は何も言わずに休むしね。ねぇ?

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ともあれ、そんなことを多分その10月に二回ほどやったんだと思うんですよ。

そしたら、担任の i先生から呼び出された。「うわっちゃー、サボリがばれたか。」とか思ったわけですよ。で、おそるおそる、叱られるかと思いつつ先生のところに行くと職員室ではなくて廊下で、ものすごく軽い感じで「シゲ君。休んだのはええんやが、いちおう二回も休んでるしお医者さんの診断書がいるからもらってきてくれるか。書類上必要なんやわ。」と言われたわけです。

ああ、そうか。う〜ん。でもなぁ、そんなもんありませんがな。どないしよかなぁと思いつつ、軽い調子で言われたし、まぁいいかと、ほったらかしにしてんですが、数日後にまた先生から声をかけられて「どうや。もらってきたか?」と言われたのですな。

で、「いや、まだもらってません。」と言うと「そうか。まぁ面倒やしな。わかった。ええわ。診断書なしでもええように、ワシが処理しといたるわ。特別やぞ。」と、これまた軽い調子で言われた訳です。

で、「良かったぁ、助かった。」と思って、数日すると、また先生が声をかけてきて「お、シゲ君、例の診断書やけどな、いらんように取りはからっといたから。もう、持ってこなくてもいいから。」と言ってくれはったわけです。

で、「助かったぁ」と思って「はい、わかりました。」とその場を離れようとすると、そのi先生は「ちょっと待ちなさい。こっちに来なさい。」と人のいてない所に連れて行って「君、診断書がいらないように私が取りはからってあげたのだから、そういう時は『ありがとうございます』とお礼を言うものやろ。それを言わないのはイカン!」と、いままでの軽い調子とは全然違う、非常にキツイ調子で、烈火のごとく怒られたのです。

「こう言うときは、ちゃんとありがとうと言いなさい!ありがたいと感じているときに、それを言わないのは、とても良くない! すごく良くないことだ!」

とまぁ、本当にものすごく叱られたんですよ。烈火のごとく怒るとはこの事かというぐらいに叱られたのです。それまでが軽い調子だっただけに、無茶苦茶に心にグサッときたわけです。

本当に「i先生のおかげで助かった〜」と思っていただけに、「ありがとうございます。」の一言を言わなかった、言えなかった自分が、それはもう、顔から火が出るほどに恥ずかしかったんですね。
恥ずかしくて恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいの勢いです。

で、そうやって叱られてはじめて、「助かりました。ありがとうございます。」と言って、それで許してもらえたんですね。で、そこから後は、もう別に何のおとがめもなし。そのままでした。

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当時、この出来事が、僕にとってどういう意味があったのか、自分でもまったく自覚はなかったんですが、この事件の後、僕の高校での生活は一変してしまったんですよ。自分でも理由はまったくわかってなかったんですけど、部活にも入り、彼女もでき、180度異なる高校生活を送る事になったんですね。

高校前半と後半では、まるっきり違う人間なのではないか? というくらいに生活のパターンから、モノの見方から、すべてが変ってしまったんです。

で、多分、僕自身の内面の変化は「二日間のサボリ事件」が一番大きかったはずなのですが、なんでそのi先生の「叱り」が、そんなに効果的だったのかが、ずっと自分でもわからなかったのです。

多分i先生は、僕の「サボリ」はわかってらしたんだと思うんですよ。ただ、それを問いただしても、言い逃れするだけとわかってたから、そのまま嘘を嘘として芝居として付き合ってくださったんでしょう。で、その嘘の芝居の上で、「ありがとうございます」と言うべきところで言わなかった僕に対して叱った。つまり僕にとってわかりやすい、有無を言わせず「ああ、僕が間違ってるな」とはっきりしている状況を作ってから、そのタイミングで叱った、という事だと思うのです。

いや、なかなか大した先生なんですけど。実にありがたい先生で、僕はいまだに忘れられない方です。

でも、じゃあ、「叱られて恥ずかしい想いをしたこと」と、「充実した高校生活」。これが、どうつながるの? というと、全然つながらないわけですよ。自分の中での論理的なつながりが全然ないわけです。さっぱりわからない。

わからないんだけど、自分としてはその「二日間のサボリ事件」こそがスタート地点なんです。そこから変わった! というのが気持ちの上で、はっきりとあるわけです。でも、何故そうなったのかの説明が全然、さーっぱり、まったくできなかった。自分でも何故そうなるのかがわからなかったわけです。

でもね。
最近ようやくわかってきたんですね。

これはつまり「自分の事を恥ずかしく思う」ことで「感じる心」を取り戻したって事なんです。簡単に言うと。

自分のやっている事が、恥ずかしくて恥ずかしくてしかたない。顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。そういう気持ちになったからこそ、「感じる心」が取り戻せたんですね。

それまでは多分「自分の心を感じないように」と、リミッターをつけていたんだと思うのですよ。なんせACですから。嫌な事や辛いことから逃げようとしますしね。「感じなければ問題にはならない」という間違った解決策を取ってしまう。けれど、感じる心を弱くすると、当然ながら「喜び」とか「楽しみ」を感じる心も小さく小さくなってしまうんですね。だから「(助かった〜!)ありがとうございます!」という感謝の言葉が出てこない。

ようは、そういう構造になってしまってるわけです。

だから、このi先生の「叱り」は、僕の感情のリミッターを外すのに、とても効果が高かったわけです。「恥ずかしい!!!」と思う心こそが、幸せを感じる心そのものなわけです。だって、まさに「感じる能力」そのものですから。

まず、この「感じる心を取り戻した」というのが、おおきなひとつの原因なんですね。

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で、もうひとつ別の側面での原因があります。それは「社会的規範の内的獲得」とでも言いましょうか。「自分の判断は間違っていない」という自信みたいなものが生まれたという事でもあります。

つまり「父性」の獲得というような事なのかも知れません。

前にも書きましたけど、うちの父は、父親にも母親にも見捨てられたような状態で祖父母に育てられた、苛酷な子供時代を過ごしていたので、父性も母性も、あまり得られなかった人なんですね。だから当然のごとく、僕も「父性」を得る事無く育っていたのでありますよ。

でも、この「i先生」に叱られて、はじめて僕は「父性」とは何かを体感したという事なんだと思うんです。

別の言い方をすれば、「正しい価値基準の獲得」とか、良い意味での「権威主義」の獲得という事かもしれないですね。

もっと別の言い方をするなら、線グラフとか棒グラフを書く時の「原点ゼロ」の獲得と言っても良いかもしれません。基準点、ってことでしょうね。

何が正しくて、何が間違っていて、という事が、親には教えられていなくても、そして、自分にはわからないものであったとしても、それは家の外の社会にはキチンと存在していてるって事ですね。それがわかったんだと思う。

家の中の基準値しか知らなくても、子供は家庭の外へ出ます。社会に触れます。社会に触れている自分の中にも、友達との関係とか、いろいろな情報源とかから善悪の判断例とかをいろいろ体験してますし、実感してきています。そういう経験の蓄積があります。

その経験を統合して、自分なりの「善悪の価値基準」みたいな事は、親に教えられなくても、多少は身に付いてきてるわけです。まさに「親はなくても、子は育つ」という奴です。

ただ、そういう実感は育ってきていても、身の回りの人間関係にキチンと反映させるだけの「確信」がないわけですよ。「これで正しいのだ」という自分自身への信頼がない。自分の心の中の価値観と親のやっている行動や、家の中のルールとが、うまくかみ合わない。(そらそうですわね。親がそういう「正しい社会ルール」を知らないのだから。それはしょうがないです。知らないものはしょうがない。)

そういう「家の中と外との違い」みたいな事を考えると、どっちが正しいのかわからなくなって(なんと言っても、自分の家が一番気楽ですから、家の中のルールの方が正しいと感じがちなんですね。まだ幼いから。)自分の判断への信頼がゆらぐ。自分に自信が持てなくなってしまうわけです。だから何事にも真剣になれないし、中途半端だから、友達もできないし、学校もおもしろくないわけです。「帰宅部」をやってるしかなくなってしまう。

でも、それでも高校で1年半は過ごしているわけですから、「自分の中に育ってきた基準」というのは、実はそれなりに出来上がっているわけです。で、その基準に照らし合わせて「良い」ことなら、やっぱり良くて、「悪い」事ならやっぱり悪いんだ、という実感が、この「I先生のキツイ叱り」によって、持てた、という事なんだと思うのです。

「感じる心」を取り戻したことで、自分の感じ方そのものに自信が持てたって事ですね。

「あ、やっぱり恥ずかしいと思うような事はしたらアカンのや!」という自覚が持てた。だから「自分が恥ずかしいと思うような事は最初からしなければええんや!」という自覚が生まれた、という事ですね。

「悪い事してるよな」と思っている時に叱られると「あ、やっぱりこれは悪いことだったんだ」という自覚が生まれて、自分の「悪いことしてるよな」という感覚自体が正しいとわかる、という事なんです。

つまり、「自分が家の外でなんとなく蓄積してきた倫理観は間違っていなかったんだ」という確信を得られたという事なんですね。そういう効果が、この「i先生」の叱りにはあったんです。

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で、この自信は、この「顔から火が出るほど恥ずかしい想いをした」からこそ得られたわけです。

あれだけ恥ずかしい想いをしたのだから、もう二度とあんな恥ずかしい事はしたくないという気持ちでもあります。で、それは「家の中の特殊ルール」ではなくて、自分が小・中・高と、身の回りの人間とやりとりしてきた中で得られた事で判断しても、大方間違うことはないんだ!という、そういう確信につながったんだと思うのです。

「自分で『悪い』と感じた事に対してはちゃんと謝ればいいし、『うれしい』と思った時には、ちゃんとありがとうと言えばいいんだ。それだけの事なんだ!」という確信が得られたということだったんですね。

当時はそこまで論理的に整理は出来てなかったのですが、いまにして思えばそう言うことだったんだと、よくわかるのです。

6月2日の日記「『感じ方』は自由なのか?」でも書いた事ですけど、世の中には「大事なところに引く赤線」があって、それは「自分の興味で引く緑線」とは別にあるんだ、と自覚できた瞬間だったんだと思うのです。

風邪でもないのにガラガラ声で電話して休む父親の社会に対する態度とは別に、「自分の感じている事を正直に出さないのは良くない!」と叱りつけるi先生のような社会的な正しい権威もちゃんと存在しているという事なわけです。

それが僕の中ではっきりとわかったという事なんだと思うのですね。

それはつまり、何が恥ずかしい事で、何が恥ずかしくないかという「価値判断」の軸が自分の中にもちゃんと存在していて、それは先生が言ってる事が「正しい」と分かるくらいにはキチンとしたものなのだ、という事なんです。

●先生の言うことももっともだ。

と思えるから、叱られたことが「恥ずかしい」わけですからね。
三色ボールペン勉強法で言うなら「ここは赤線だ!」ってわかったって事です。で、家の中のルールは「あれは緑線だったのか。」と整理できた、という事でもあるわけです。

別に否定する必要はないけど、緑線は赤線ではない。で、やっぱり大事なのは赤線であって、社会的に求められるのは「大事なところに引く赤線」なんです。「自分の興味で引く緑線」ではない。

だから、そういう倫理観が、このi先生に叱っていただいた事でキチンと確立されたんです。自分の倫理観に自信が持てるようになった。「機能するルール」を見つける事ができたって事なんです。概略そういう事なんです。

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で、30年近くもたって、やっと本格的にわかってきたことは、ちゃんと赤線を引く作業をし続けている人は、同じ時に同じタイミングで同じ部分に赤線を引くんだって事ですね。

高校当時も「自分の倫理観は、ちゃんと高校生活には通用する、機能する感じ方なんだ」という確信は得られてたのですが、歳を重ねるごとに、その通用する範囲が広がってきてるんですね。

単純に言えば書物等をちゃんと「大事な部分に引く赤線」を意識しつつ読むことで、歴史という「時間」の拡大と、海外という「空間」の拡大が得られてきたってところがあります。(時間軸・空間軸を拡大するのはすごく意味があります。より大きな視点が得られますから。)

視点を広げれば広げるほどに「より大きな太い赤線」というものを感じ取れるようになっていきます。

アダルトチルドレンの知識もそういう「大事な赤線」のひとつですし、トルストイの言う「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭はさまざまである。」も「大事な赤線」そのひとつでしょう。

自分一人でいるときは緑線だけで良いけれど、自分以外の人間と関係を保つためには赤線こそが大事だって事なんですね、単純に。赤線は異文化をつなぐルールなんです。

だから、自分が赤線の存在に気付いてもいない人が緑線しかわかっていない事を理由に「赤線なんて間違いだ」とか「赤線なんて存在しない」とか言う人がすごく間違っていて腹が立つわけです。人間関係そのものを否定している。他者と交わるためには、緑線をいったん横において、赤線を優先させないといけないんです。

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なのに、6月2日の日記で書いた若冲展に並んでいた男みたいに「国語のテストが間違ってる」とか、「自分が知らない・わからない」事を理由に、「大事な赤線」の存在を否定するというアホの極みをやる奴が出てくるんですね。

これは本当に困った事なんです。

赤線の存在自体を理解していない。ものすごく重大な欠陥なんです。

で、ものすごく重大な欠陥だからこそ、そこに気付いている、この男の彼女は、やさしくていねいな口調で「それは受け取る能力がないってことなのよ」と事実をちゃんと伝えてあげてるわけですね。

でも、この男はそれでも「論説文ならわかるけど、小説の場合は感じ方はいろいろで良い」と屁理屈を繰り返しこねるわけです。

なんでか?

感じたくないわけですよ。
自分が間違っているのだ、という事を感じたくない。

なぜ感じたくないかというと、心にグサリと痛みを感じるからです。痛いからイヤって思ってる。
まぁ、それも無理ないのかもしれない。ACの場合は子供の頃に、そういう痛みから逃れるために「感じないように」屁理屈こねるクセがついてしまってますから。

でも、ほんとうに、この「痛み」こそが「感じる心」そのものですから、この痛みを避けるというのは自分の感じる能力を否定していることにしかならない訳なんですけどね。「受け取る能力がない」のも当然なんですよ。痛みを避けてる=自分の感じる心を否定している、だから。

痛いのがイヤで「恥ずかしい思いを避けている」という事なんですけど、本当に単純にそれだけの事でしかないんですよね。そんな痛みなんて一瞬なのに。すぐに自然に痛みがおさまって、もっともっと大きな気づきにたどりつけると言うのに。

多分、恥ずかしい思いをする、と言うことこそ、自分の倫理観に自信を持つ、最上のチャンスなんですよ。実際には痛いけど(笑)


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で、少なくとも僕にはそういう経験があるから、やっぱりACに対しては、ついつい「叱」ってしまうんですねぇ。i先生みたいに上手には叱れないけど、とにかく叱る。

「お前は恥ずかしい目をしないといけないんだ! 恥ずかしく思え!」と鬼のように怒る。どうしても、つい。

まぁ、それだけ高校の時の体験が強烈だったと言うことでしょう。大事な事だと思うから強く叱っちゃう。

でも、この「感じ方はいろいろ」という男みたいに、ACは、そうやって叱られると「揚げ足取りばっかりするな!」と、反発するんですよねぇ。

赤線の存在を知らないから、それがどれだけ大きな欠陥であるかがわかってないんです。

だから、問題がとても小さな事だと勘違いしてるんですね。だから「揚げ足取りだ」とか思おうとしてしまう。

でも本当はそうじゃない。知らない事こそ大問題だし、その原因は、「恥ずかしい思い」を避けてるから、なんですよね。で、ちゃんとした倫理観なんて、自分が恥ずかしい思いをしなけりゃ、身に付くはずもないのですよ。

痛みの中にこそ「ありがとうございます」を素直に言える、「自然と赤線を引ける自分」への道が待っているのに、その入門口である「恥ずかしい思い」を避けてるんですね。

まぁ、当人がその門をくぐらない限り、幸せへの扉は開かないのですけどねぇ。痛いのがイヤなんだろうなぁ。ちょっとは痛みも感じろっちゅうねん。アホが。って思うわけですが。

でも「わからないから知らない」彼らは「知らない事は間違っている。」と言う。

・「私の知らない所に、私の知らない正しさがあるなんて信用できない。」
・「人の生き方に正解は無数にあるのだ」
・「誰かの意見が正しいからそれに従うなんて、一番つまらない人生だ。」
とわかってない言い訳を繰り返す。

そんなアホな! と僕は思う。
ちゃんちゃらおかしい。子供の理屈だ。
単に「知らんだけ」やんけ。
で、知ろうとしてないだけやん。
で、なんで知ろうとしないかというと、自分の過ちを認める恥ずかしさを避けてるだけ、という堂々巡りがあるだけ。

あーつまらん。

間違った事を言ったら「間違ってました、ごめんなさい。」と言うと決まってるし、それをしないと人間の関係性は成り立たない。生き方は無数でも言うべき事はひとつで、それが「機能するルール」です。

で、ここには、この僕が体験して大転換が起きた「恥ずかしい思いを受け取る」という、大きな溝があるよなぁと、つくづく思ってしまうのです。痛みをキチンと受け入れる。それが大人になるためにどうしても必要な心構えなんですけどねぇ。

まず、自分が間違った事をした時、言ったときに、キチンと「恥ずかしい思い」をしないといけないんですよね。そうでないと正しくゴメンナサイなんて言えないし。

で、その間違いを指摘してもらえた時には「間違いを指摘してくれてありがとう」と言えなければならない。それ以外に取るべき態度はないのです。そんな所に「多様性」なんかない。それは緑線ではなくて赤線としてこの社会にキチンと存在していることなのです。

ただまぁ、ACのほとんどは赤線の存在自体に気づけてなかったりするから、気づくのは大変なんやけどね。
で、だからこそ、僕は自分の体験から「恥ずかしく思え!」と言うんですが、それはACからしたら、恥ずかしさを強要しているようにしか捉えられないんですねぇ。困ったことに。うむー。
だから「小さな事をギャースカ言う、揚げ足取りだ!」とか言うんですよね。ACは。

赤線の存在が実感できないってことが大問題だからこそギャースカ言うわけですけど、彼らはそれを「小問題」としか思ってないのだから本当に不幸だと思う。

ま、僕自身まだまだ「自分の間違いを認めて恥ずかしい思い」をしていかなきゃと思っているので、相手してられないんですけどね。

ま、そういうことです。

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