ISBN:4163684700 単行本 国際交流基金 文藝春秋 ¥1,800

http://diarynote.jp/d/63189/20061101.html

少し前の日記↑「シドニー! (ワラビー熱血篇)」↑のコメント欄でいただいた、ぼくと村上春樹の関係性(作品ですよ、もちろん)についての、問いに必ずしも正しく対応しているとは言えないかもしれない答えを述べさせていただきます。

彼の作品については初期のフィクション(『羊をめぐる冒険』『ハードボイルドワンダーランド』や『蛍、納屋を焼く、その他の短編』『パン屋再襲撃』あたり)は好きです。

しかし、『ノルウェイ』とそこに至る道と、そこから流れ出しているものは、あまり好きではありません。というか、『ノルウェイ』は、ほとんど最初の数行で、「これはぼくには読めない」と投げ出さざるを得ませんでした。

そこ、だの、もの、だの、明確な言い方を避けて指示語で記しているのは、それが村上春樹的に言えば、「なにか −それがなにかはわからないが− が失われてしまっていた。そして、それはもう、もどることはない。」という状態だからです。

あるいは、文芸評論家がそのあたりについては書いていたりするのかもしれませんが、すでに読む興味をなくした作家の、その興味のなさ処、についてわざわざ読むというアイディアが、今これを書くまでまったくわいたことがなかったので、寡聞にして知り得ていないのですが。

リンクした本には、もしかしたらそのようなことが書かれていはしまいかと、挙げてみました。総じて、世界の外側からのほうが、ものごとの構造は見えたりするものですから。

この場合、世界が読む村上春樹は、その内部に、すでに母語である日本語で村上春樹を読んでいる読者と、その作品を生み出しつつ許容する日本、という世界を含んでいると想定しています。

…話が逸れました。ぼくが、村上春樹をまた読むようになったのは、『ねじまき鳥』です。その後読んだ『スプートニク』も良かった。

では、『ハードボイルドワンダーランド』と『ねじまき鳥』『スプートニク』で、なにが共通してぼくを村上春樹作品に惹きつけたのか。あるいは、『ノルウェイ』で感じた村上春樹作品の読めなさは、『ねじまき鳥』『スプートニク』ではなぜ消えたのか。あるいはなにに変わったのか。

それに関しては、やはり指示代名詞で語るしかありませんが、『ノルウェイ』に至る道で、村上春樹は自分自身が生み出したフィクションの闇に、逆に取り込まれそうになっていたのではないでしょうか。

そして、彼は必死にそこから逃れようと作品を書いた。しかし、それは自分が浸っている闇をインクにして書くような行為だったのではないかと、ぼくは思います。作り手でさえ、飲み込まれそうな闇であったから、ぼくは『ノルウェイ』がおそろしくて読めなかったのだと思います。

けれど、どんな材料・どんな道具を使って書いても、書き手の知恵と勇気が反映されないということはない。彼は、底なし沼にはまったうそつき公爵が、自分で自分の髪をひっつかんで岸に生還したように、言葉の力で、戻ってきたのだと思います。彼を底なし沼のようなフィクションの闇へ追い込んだ、同じ言葉の力によって。

彼のそういう苦闘の一環として、サリン被害者へのインタビューがあるのではないでしょうか。それは、フィクションの闇と、現実の闇とをぶつけて、なにごとかを打破しようとする試みのようにも思えるのです。

それを考えると、異世界の、地下鉄の闇の向こうの世界から戻らないままであった『ハードボイルドワンダーランド』や、向こう側に行ってしまった友人を取り戻せないままの『羊男』と異なり、『ねじまき鳥』『スプートニク』で、こちら側に主人公や登場人物が戻ってくるという構造は、村上春樹にとっての内的必然とも言えるのではないでしょうか。

ああ、しかし、書けば書くほど、だれかがもっとスイートに、タイトに、このことをずっと前に論評しているのではないかと思え、いまさら指示代名詞ではっきりしない推測をむにゃむにゃと書いている自分に、赤面してきました。

そもそものご質問へのお答えになっているかはわかりませんが、とりあえず、ぼくが村上春樹に対して考えていることは、以上のようなことです。よかったら、ご感想お聞かせください。

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